エッセイ

○呼び声

「私の耳は貝の殻、海の響きを懐かしむ」 ジャン=コクトー
記憶の中の遠い潮騒が、聞こえてくるような詩だ。
しかし、山間で育った僕に、そんな海の記憶があっただろうか。

眠れない夜の夢うつつに、ふと友人の声を思い出した。
「いぐちー」
そう呼ぶ声が、耳元で響いた気がして、眠りの入り口で引き止められた。
「いぐちー」
その声、その呼び方、その笑顔。
「いぐちー」
話の続きは出てきそうで出てこない。
「いぐちー」
その声だけが、くっきりと思い出せる。
人ごみの中でも自分の名前を呼ばれるとわかるように、自分を呼ぶ声は記憶に強く刻まれているのだろうか。
 
いろんな友人の顔をまぶたの裏に思い浮かべては、僕の名前を呼ばせてみる。
「いぐちー」笑顔の友人。
「いぐちくん」心配そうな顔。
「いぐち」困ったような顔。
「いぐっちゃん」何か思いついたような顔。

幼なじみ、家族、親類、知り合い、その他。
「いぐちー」「いぐちくん」「いぐち」「いぐち」「いぐっさん」
「たかしー」「たかしくん」「たかっしゃん」
「にぃちゃん」「おとーさーん」「おとーさーん」
 
なんだか知らないうちに、多くの人たちと関わり合ってきたものだと思う。
僕の記憶の中に大勢の人の呼び声があるように、僕の声も大勢の記憶の中にあるのだろうか。
それらが次々と現れては、夢の手前で響いている。
やがて、たくさんの呼び声が耳元で重なり合い混ざり合って、遠い潮騒のように消えていった。
 
「たーかしー」
祖母の声を久し振りに思い出して、少し嬉しくなった。
「たーかしー、ええもんやろかー」
”ええもん”の中身は、お菓子とかなんだけど。
そこには小学生の僕がいて、その頃の祖母がいる。
 

 

○桜たち

いつもより早めに家を出て、新一年生の息子を小学校に送って行った。
小学校の門の所の桜が、満開で美しかった。
そこから駅への途中でも、菜の花や新緑がきれいだった。
混んだ電車の車窓から見る、あちこちの通りすぎる桜も楽しい。
環状線の桜ノ宮では、橋を渡る電車の両側に、大川沿いの満開の桜がずらりと眺められる。

鶴橋駅で近鉄電車に乗り換えようとすると、近鉄電車のホームに人が溢れていた。
ホームだけでなく、階段の上まで学生でいっぱいだ。
どうやら、沿線の近畿大学の入学式らしく、スーツやそれらしい恰好の若者たちで駅が占領されている。
同じ年頃の自分を考えると、こんなに大人っぽくはなかったな、と思う。

大勢の新入生に混じってなんとか乗車するが、3分の1くらいの学生は満員で乗れず置いていかれる。
学生たちを見て、いろんな風に育ってきたんだろうなとか、これからいろいろあるんだろうなとか、想像する。
中には、髪を立てた男の子や、茶髪の派手な女の子もいるが、
なんにしろ若いってきれいだなーと見てしまうのは、それなりに自分が年をとったからだ。

10数分で到着した近畿大学の駅でも、ホームが混んでいて、全員降りるのにだいぶ時間がかかった。
ぞろぞろと降りていく新入生たちの横顔を見ながら、ふと、彼らも桜なんだなと思った。
一人一人、やっと咲いた桜の花だ。
いろんな風に育ってきて、今こうしている。
人体としては、もう十分に成長は済んだように見える。
花開き、受精し、種を作る。そんな花の能力も、もう完成されている。

それだけで、いいんではないだろうか。
社会的な人間の完成など、自然界には無意味なのかもしれない。
彼らの生物的美しさの前では、世知など無価値に思える。
長生きなど、おまけに過ぎなく思える。

若い世代は、自分たちの美しさに無頓着だ。
生き物として最も美しく、生命力に満ちている瞬間であることに、自分では気付かない。
自分も自分の周りも、全部が満開の桜なのでわからないのだ。
むしろ、隣の花との違いに一喜一憂して、悩んでいたりする。
年を取ったものから見れば、どの花も羨ましいくらい輝いているのに。

今年も満開の桜は咲き誇り、惜しげなく花びらを散らせる。
桜吹雪の感傷は、見るものの視点である。
桜に限らず、すべての花が実を結ぶ訳ではないし、開かない蕾みさえある。
それでも毎年春はやって来て、季節を様々な色に彩っていく。

 
○鉄棒


用事で地区の運動会へ出かけたのだが、出番があるわけでなく校庭を一回りする。
校庭のはずれには鉄棒が並んでいて、黒く錆色に光っている。
端の一番低くてかわいいのに腰掛けて、グランドを見渡す。
遊具の辺りは、トラックからは離れていて、運動会の騒ぎも少し小さく聞こえる。

トラックの向こう側には、三階建ての校舎があって、その上の高い青空を大きな雲が流れていく。
ゆっくり流れる雲は冷たく輝いて、校舎がずいぶん煤けて見える。
あの雲は、上空では実際にどれくらいに巨大なんだろう。

機材の故障か、にぎやかな運動会のBGMがぱたりと途切れた。
音楽のない運動会は案外静かで、歓声は風に消えそうに頼りない。
でも、その静かさが何だかのどかで悪くない。
音楽のない運動会の素顔に、リアルな人間のにぎわいが見える。

アンプやスピーカーの無いころの運動会を、想像する。
もっと古い時代の、祭りみたいなものを、想像する。
いつの時代にも、こんな笑い声があり歓声があり、こんな秋の空があっただろう。

そして、別の時代、別の青空の下には、悲しみや涙も繰り返されてきたのだろうと思う。
今でさえ、ここからずっと遠いどこかには、何の歓声もなく涙と怒りばかりの国がある。
悲鳴や怒号の、絶望の場所がある。
空は青く、風は涼しく、日差しはやわらかいのに。

故障が直ったのか、不意に大きな音で音楽が流れだす。
にぎやかなトランペットが鳴り響き、いつも通りの運動会に戻る。
葉の少ない藤棚の下をわざとくぐって、グランドへ帰る。
大きな雲が、流れてゆく。



 

○亀とパーフェクトワールド 

狭い我が家には、小さい庭がある。
その隅の、衣装ケースでこしらえた池に、子亀が住んでいる。

天気の良い日、カーテンの隙間から覗くと、子亀はレンガに登って、ご機嫌に甲羅干しをしている。
長く首を出して、後ろ足を突っ張るように伸ばし、恍惚としている。

この子亀は警戒心が強くて、まず人に姿を見せない。
人影が見えたり、少しでも物音がすると、すぐ水へ潜ってしまう。

後にはドポンという水音と、泡ぶくだけが残っている。
まったく愛想のない亀だが、かわいい奴だ。

夏場、しばらく水を替え忘れていると、ボウフラが発生している。
そういう時に、餌をあげても、あまり食べなかった。
どうやら子亀は、ボウフラを食べているらしい。

子亀のふんの栄養で、緑粉が発生しボウフラが湧く。
ボウフラは緑粉を食べ、子亀はボウフラを食べる。
何にもしなくても、子亀は育っていく。

こんなちっちゃな場所で、自然はすぐに完璧なサイクルを、作り出そうとする。
なるほど、と思った。
もともと、この世は完璧な世界なんだ。

この世には、我々に必要なものは、なんでも揃っている。
食べ物も、水も、空気も、時間も、空間も、そして愛も。
全部、この世のものだ。
そして、われわれもこの世界から生まれた、この世界の一部なのだ。

今日も、子亀は何にもせず、食べては甲羅干しをする毎日だ。
夏の陽射しのなか、あたりを睨みつけながら、甲羅干しに這い上がってくる。
ちょっとだけ、亀になってみたい気分になった。

 
○夕日を眺める眺め方

まず夕日に臨む。
地平線が水平線があり、夕焼け空があり、赤い夕日がある。

ここで視点を切り換える。

地平線を、巨大な地球の輪郭だと、強く意識する。
空は、無限の宇宙空間だと、意識する。
そして、輝く夕日を、核融合で鮮烈に輝く赤色恒星と、捉える。
遥か一億五千万キロの宇宙空間を越えて、強力な光エネルギーが届いていると、意識する。

地球が、時速千七百キロの物凄い速さで、背中側へ回転している。
宇宙写真で見る地球の表と裏の境目に、自分の位置がある。
大気に拡散する光が徐々に無くなって、宇宙が本来の青い暗闇を取り戻してゆく。

そんな見方で、眺める夕日は、自然科学大宇宙ショーだ。

 
○青空 

こだわりなく、暮らしたいと思う。
わりと、まあいいやで済ますことも多い。
しかし、それとは別に、絵については、いつまでも微妙な色や形にこだわってしまう。

下地、絵肌、バランス。絵の具を塗り重ねて、心に映った空色を作ろうと苦心する。
僅かな色の調節で、感じが出たり出なかったりする。
色がむらになる。刷毛の毛が抜ける。
ごみが画面に付いて、
舌打ちをする。

もっと広いアトリエで描きたいなあ、などと、そんな時は外へ出る。
普通の青空が、普通に広がっている。

この青空を本来の天井と考えて、
うちの天井は、この広い世界を、仮に区切っているだけなのだ、
と考えてみる。

首を反らし、天頂を見上げる。
遠く深い青から、地平の白っぽい空まで、色が無限に変化し、空は輝いている。
何度も見ても、完璧なグラデーションだなあ、と思う。

  
○魂について 


魂というものがあるのか無いのか、僕にはわからない。
しかし、世の中には葬式があり、お墓がある。
国をあげての慰霊祭があるから、国は魂の存在を認めているということだろうか。

 僕が死んだら、僕の身体は完全に灰になるまで燃やされる。
カラカラと、乾いた音を立てるお骨になる。
その後に、魂というものが本当に残るのだろうか。

何も残らないと言う人もあるし、魂は永遠だと言う人もある。
何度も生まれ変わって来るんだ、という考えもある。
死後の事が心配で、そのことで悩んだり、大金を使ったりする人達もある。

僕の死後、魂だけが残るとすると、
その魂が幸せなら、魂だけの僕は100%に幸せだし、
その魂が悲しんでいたら100%に不幸だ。

生きている間、いつでも魂を幸せにしておけば、いつ死んでも幸せな魂になれるのだろうか。

そもそも、魂に幸不幸があるのだろうか。
心と魂は同じものなのだろうか、とか、
疑問ばかりの結論としては、
死んだ後まで苦しみたくないわ、
ということで。

 
○冬の土手 


 川沿いの土手を走る。
冬の風が肌を刺すように冷たいが、体は充分に暖まっている。

冬の空気は澄んで、遠くの空まで視界が開けている。
土手を下りると芝生の道が、川に沿って低く造られていて、
さざ波の波紋が、深い青の模様で流れてゆく。

白い息を吐きながら身体を回し、川の流れを眺めながら駆けてゆく。
波の間に小さな渡り鳥たちが、羽を休めて浮かんでいる。
揺れながら少し羽を膨らませ、凍てつく空気から身を守っている。
向こう岸のマンションが、波に映ってキラキラしている。

走る自分の白い息と、遠くからは見えないが淡く白いであろう鳥の息を、
頭の中で比べてみる。
自分の脈打つ心臓と、鳥の可愛い心臓を比較する。
あの揺れる羽毛の中で小さな心臓が、僕と同じ赤い血液を押し出しているはずだ。
酸素をたっぷり含んだ鮮やかな赤い血が、小鳥の体を流れ暖めているはずだ。

 小鳥の精巧な生命装置の不思議を考える。
小鳥の小さな心臓、赤い血液。その赤血球を造るタンパク質の分子。
分子を造る炭素、酸素、水素の原子。
原子を造る電子、陽子、中性子。
そして素粒子へと小さく。

冬の土手では、陽差しがもう一度小鳥たちを照らす。
光の粒が溢れていて、目には見えない素粒子が見える気がする。
小さな鳥を両手でそっと抱き上げたとして、
羽毛の奥の暖かい心臓から伝わるであろう温もりを、思い浮かべながら走り抜けてゆく。

 
○Paint As You Like! 


「Paint as you like and die happy.」 (ヘンリー・ミラー)
好きなように描いて、幸せに死ね。

阪急茨木駅の駅前の古本屋で、ヘンリー・ミラーの画集の表紙に、この言葉を見つけた。
ヘンリー・ミラーの小説は好きだったが、絵を描くのは知らなかったし、何よりこの言葉にどきりとした。
ミラーの絵はシャガールに似ていた。きれいな水彩で自由奔放に描いていた。
上手な絵ではないが、美しさを知っている人の絵だと思った。

「好きなように描いて、幸せに死ね。」全くその通りだと思う。
「幸せに」という所が素晴らしいと思う。

「好きなように描け」ということは、全く好きなようにであって「大胆」でも「繊細」でも、
「でたらめ」でも「きっちり」でも、「明快」でも「あいまい」でも何でもいいと言うことだ。
誰かにとやかく言われる筋合いは、何も無いという事だ。

以前は「諸行無常」という言葉が好きだった。
いろんな場面に、この言葉を当てはめてみてみた。

実際に、諸行は無常で、この世に何時までも変わらないものは何も無い。
でも僕の場合、どうせ諸行は無常だからと、後ろ向きの言い訳にもなりがちだった。
それに比べると、ヘンリー・ミラーの言葉は、前向きで何より力強く明るい。

それで、空の絵を描いている。描きたいものを描くんだと、それでいいじゃないか。
でも時に、いろんなものに囚われる。その度この言葉を思い出して、空を見上げる。

 


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